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完全ネタバレ「君たちはどう生きるか」あらすじ・解説・感想・テーマ・タイトル回収など

※アフィリエイト広告を利用しています

(まだまとまりません、随時加筆していきます)

あらすじ

戦時中の日本。東京の街に火災が起こり、主人公(真人)の母親がなくなる。その1年後?父と息子(真人)は田舎へ疎開する。
疎開先は、父の経営する軍需工場がある街で、大きなお屋敷に住むことになる。屋敷には、数人の老婆+老人の使用人が住んでいる。
そして、ここには、すでに父の身重の再婚相手(ナツコ)が住んでおり、ナツコは亡くなった母の妹であった。

疎開先でも、真人は気丈に振る舞い、にわかに受け入れられない継母・ナツコに対して硬い態度のままだった。ナツコは、通り一遍だが、真人に優しく接する。
お屋敷には、大きなアオサギが住み着いており、着いたばかりの真人につきまとう。
真人は、地元の学校に転入するが、いじめの歓迎を受けボロボロにされるが、真人は何を思ったのか自分の頭を石で小突き血だらけの怪我をして屋敷へと帰る。

アオサギは真人に「お待ちしていました」と言い(喋るアオサギ)、「母は生きている」「会いたいなら着いてこい」とつきまとう。
真人は、アオサギを射ようとアオサギの落とした羽を使って弓矢を作る。その時、母が残してくれた本「君たちはどう生きるか」が見つかり、本を読む真人なみだがこみ上げる。
そんななか、ナツコがつわりで寝込んでしまう。硬い態度ながらナツコを見舞う真人。

真人は、ナツコが一人屋敷に接する森の中へ踏み入るところを目撃するが、その後ナツコが失踪してしまう。
使用人の老婆たちそのほかをあげてナツコを探す。真人は森の奥ではないか?と、引き止める使用人キリコさんと森の奥へ進み古い塔へとたどり着く。
そこに待っていたアオサギは二人を塔の中に引き入れる。アオサギと真人の対決し。手製の弓矢でアオサギのくちばしを射抜き、ナツコの所へ連れて行くように依頼すると、そこへ現れた異世界の主(大叔父)の命によってアオサギは真人たちを異世界へと連れて行くことになる。
床が溶け、真人たちは異世界へと落ちて行く。

…続く

ストレートな感想

まずは、母親の妹が義母になる…という、子供には結構重い理不尽がずーっと頭にあった。なのに、なぜその義母を助けに行くのか?わからなかった(実は、その間に母からの本を読んでいたのですが)。
ゆったり進む導入に比べ、展開が早い異世界での出来事。理解できないでいる間に、重大な判断を迫られる。決断はするものの、他者が割って入って異世界は崩落してみんなぎりぎりで現世に逃げ帰る。世界の辻褄があっていない?
結局、どういうお話だったのか?異世界へ消えた義母を連れ帰る冒険ファンタージーという表層しか見えなかった。
これが、映画を見た直後の理解。だから感想も盛り上がりの小さいスペクタクル…という程度。

ただ、一階層下、もう一階層下に織り込まれているはずの物語の構造には、想像はするもののまだ気づけなかった。
手がかりは、「君たちは、どう生きるか」という本の位置付けであったり、登場するすべてのものは何のメタファーか?など。
例えば、13個の積み木(石)、あの世とこの世、均衡の意味…など。
そんな風に考えてみると、とんでもない忘れ物をしているのだろうというのが容易にわかる。

作品のタイプ・宮崎作品としての見方

この作品をタイプでみると、これまでの作品の流れの延長上にあるような作品?で、風立ちぬ的で、ポニョ・千と千尋的で、これまでの作品の要素があちこちにのぞいているようにも見える。
ただ、作家としては、もうもののけ姫以前のようなストレートな世界観では作れないというのがわかる。
これは、宮崎駿の成熟を楽しむ作品であり、前作までの商業的な作り方をしていない作品なのかもしれない。
しかし、ラピュタのような血沸き肉踊るような冒頭シーンなどは無いが、次々と現れる舞台はどれも秀逸で、やはり宮崎駿!と思わせる設定がある。
いや表層的なことはいい、それより何が織り込まれているかを探す方が楽しい作品だということかもしれない。

全編を通してみていると、おや?と、見たことがあるシーンが登場する。
これは明らかに、宮崎本人の過去の作品のワンシーンで、宮崎はこういうことをしない監督だったが、これをみると本人の最後だという意識を感じてしまう。

キャラクター

真人:主人公の少年。2年前に母を失い、継母を迎えることになり悩んでいる。
父:軍需工場を経営している。闊達で家族思いでもある。
継母・ナツコ:真人の母の妹で父の再婚相手。妊娠していて異世界へと引き込まれる。
母・ひみ様:真人の母が異世界で転生した少女。火の魔法を使い、ペリカンたちを追い払う。
サギ男:アオサギの化け物。お屋敷で大叔父の後継者を待ち続けていた。
キリコさん:お屋敷の使用人の老婆が転生して若い女になった。漁をするのが仕事。
インコ大王とインコたち:異世界で増え続けた人まで食べる集団。
使用人のババ達:お屋敷の使用人たち。
大叔父:昔、失踪したお屋敷の主人。超エネルギー体の石と、異世界を治める契約をした。
ワラワラ:小さく丸い生き物。熟すと空に上がり現世で生命として生まれる。
ペリカン:異世界で繁殖している取り。熟したワラワラを食い散らし、人も食べようとする。
死んだ者たち:大勢で船を漕いでやって来る。キリコの獲物を買いに来る影のような者たち。

キャラクターのモデル

真人

主人公の真人は、宮崎駿本人がモデルというのが多数の意見。これは実家の稼業が戦闘機の部品を製造していることから、事実と合致する。
宮崎さんは、戦争が進んで家の稼業が繁盛することに引け目・罪悪感を感じていたと聞いたことがありますし、作品中でも「儲かる」的な発言もありましたね。だとすると、父親のモデルは宮崎さんの実のお父さんかもしれません。

サギ男

「サギ男のモデルは鈴木さんじゃないからね」という宮崎さんの発言がありますが、モデルを職場環境と見た場合は鈴木敏夫かもしれません。
売れないアニメ監督を世界に引っ張り出して二人で放浪したアオサギ・鈴木敏夫。

キリコ

キリコのモデルは、色指定の保田さんと言われています。この設定には機能的な意味合いはないと思われます。

ひみ様

宮崎さんのお母さんです。宮崎さんのお母さんが病弱だった話は度々出てきます。元気な若い頃のお母さんを登場させて、お互い名乗り合って抱き合う…宮崎さんはやっと母親の記憶や影響に区切りをつけられたのかもしれません。

大叔父

大叔父さんは、主人公の宮崎さんに対して高畑勲とみることができます。彼は理想主義者で、いつもそのことで宮崎さんは泣かされていたという事実があるので、理想の世界を作ろうとしていた大叔父、それを受け入れなかった真人という構図が合致するでしょう。

テーマとタイトル回収

主人公・真人は、冒頭からほとんど喋りません。淡々と行動する姿は意志の強い主人公という描写かと思わせる始まりでしたが、あとで考えてみると母親を無くした辛さから抜けきれていない状態だったのかと思われます(それに比べて父の賑やかさが対照的です)。
新しい継母を受け入れることができず、学校へ行っても喧嘩して負けてしまいますが、追い討ちをかけるように自分で自分に傷をつけます。これがどうも、怪我をして周りの気を引こう…という表現に見えませんでした。大げさな事にして学校へも行かず、何もしたくない…と自暴自棄になっていたように思えます。

そんなお屋敷の生活の中で、ふとしたことから母親が残してくれた「君たちはどう生きるか」の本を見つけます。すぐにその本を読み始める真人。目から涙が溢れて(表情が豊かに描かれていました)、自暴自棄であった真人の中で何かが変わります。
本の中にどういうメッセージがあったのかは描かれませんが、ここから真人の行動が少し変わっていきます(ちょっと気づきにくいですが)。
だから、遠ざけていた継母を探しに行く…ということもできたのでしょうか?

映画の最後で真人は、理想の世界を作れるというチャンスを捨てて、戦争や思い通りにならない嫌なことがある現世へ戻ることを選びます。
このあたりが、この作品のテーマと言えるかもしれません。生きるのが嫌になるような世界だけれど、それでも前を向いて生きねばならない。
そんなテーマを「君たちはどう生きるか!」と、本のタイトルを借りて問いかけているのではないでしょうか。

全体のストーリー構造と意味

快く思っていない継母が神隠しに合い、それを助けるために異世界へ出向く真人。
異世界は現世の土台のような機能を持つ世界。
ここで、継母や実の母を助けるために色々なものと関わることになる。
そこでは、大叔父が世界を治め美しい世界を構築するべく努めており、真人を後継者にと求めるが、
真人は、継母を連れて帰る事を選ぶ。

見逃した疑問点

いじめられた真人は、その後自分で小石で頭を小突き血を流す。これはどういう意味がああったのか?が読み取れなかった。
ただ、最後の重要なシーンでは、自分は嘘をつくような汚れた人間であると、傷のことを引き合いに出します。そこへ繋ぐための出来事だったことは確か。

ナツコ・継母を受け入れられない真人は、なぜか異世界まで行ってナツコを取り戻そうとする。
そうまでしているのに、真人は最後まで本心からナツコを受け入れていない。なぜそういう行動になったのかが気になりながら見ていた。
最後には、新しい母を受け入れるのだが、最後に心が変わるきっかけがわからない。何があった?

最後には、インコ大王によって異世界は壊されてしまうが、そんなことになってもいいのだろうか?
それによって、現世では新しい命が生まれなくなってしまったりしないのだろうか?

ナツコは、なぜ森の奥へ進み異世界ヘまで行ってしまったのか?
その理由や必然性がわからない。
また、異世界では、産屋で丁重に扱われているが、結局ナツコを取り巻く状況にどういう意味があったのか?がはっきりしない。

アオサギの態度が、その場その場で一定しない気がした。
このアオサギは真人を、連れて行きたいのか?他人事なのか?演出のブレなのかと思うほど、判断に苦しむ感があった。

ひみさま・母は、なぜあの姿であそこにいるのか、最後までぼんやりしていた。
火災で死ぬときに、大叔父によって異世界へ転生してあの姿であの場所にいるのか?
だから、帰る扉は火事のあった時代なのか?
だとすると、キリコさんはもっと古い扉に入らないといけないのでは?

印象に残るシーンやポイントいろいろ

とにかく、宮崎駿の作るシーンそれぞれが一定の品質があった。
これが他の監督だと、イマイチできが悪い…ということがある。

アニメーションで、おお!と思ったのは、継母・ナツコの着物姿の所作。これが昭和の日本映画のように細かくて目についた。さらに、お屋敷の庭をアオサギが飛び回るシーンも、リアリティがあって興味を持続させてくれた。

インコの群れは、ちょっとデザイン不足ぽくて画面的にユルいと感じた。

エピソード集

アオサギは、大叔父様の血縁である後継者候補をづっと待ち続けていた。
そして、アオサギと話ができる真人を異世界へ連れ帰ることにする。

オマージュ

今回の映画では、ディズニー、ジブリ、宮崎さんの過去作のオマージュが多数あったようです。
昔から、宮崎さんは、いろいろな写真や映像作品からイメージを引っ張ってきてオリジナルのように見せてしまう達人でしたが、今回はちょっと違う雰囲気でした。まるっぽその作品を感じさせる見せ方だったのです。今までにないそれを観ると、ああ宮崎さんも最後の作品と思って作ってるのかな…と思いました。

白雪姫

お屋敷の使用人達・老婆たちは、七人の小人を思わせましたね。
これは、かなり寄せて作られていたように思います。
さらに、何度かでて来るナツコの眠っているシーンが白雪姫そのものです。

ディズニーのオマージュはたくさんあったという人がいて、異世界へおりた時などはファンタジアに似たシーンがあったようです。

未来少年コナン

異世界におりて最初のエピソード、キリコさんのふねに乗って大波を乗り越えるシーンですが、未来少年コナンのオープニングと全く同じ絵になりました。ああ〜と思いながら見ていました。

紅の豚

これは、一発で思ったシーン。大叔父が庭の東屋にいるシーンが写るのですが、それが紅の豚のジーナの庭のシーンと同じイメージになっていました。

ナウシカ

母親が火に包まれるシーンは、ナウシカが王蟲の子供を守ってペジテの飛行瓶に特攻するシーンを思わせます。

<美術絵画のイメージ/h3>
今回、美術絵画のイメージがたくさん出てきたような気がします。既視感があるのですが、詳しくないのでわからないのが残念です。
・ベッックリンの死の島:下界におりた最初のシーンで墓があるところです。

(以上、全編加筆していきます)

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